未来へ

テレビのCMで松岡修造さんが歌っていた曲。

その歌詞が心にひっかかりました。

 

大人として子どもたちにできることの本質であるように感じます。

 

ほら、足元を見てごらん

これがあなたの歩む道

ほら、前を見てごらん

あれがあなたの未来

 

ワタシも含めて大人は子どもたちの幸せを当然願っています。

だからこそ、いろいろと口出ししてしまう。

「それはダメ。こうしなさい」「こういう生き方をしなさい」

「こういう人になりなさい」などなど。

 

でも、子どもたちとって本当に必要なことは

その時の自分の姿(生き方)と正しく向き合うことと

未来の自分の姿を想像することかも。

 

今自分が立っている「足元」をしっかりと見つめて

そこから続いていく「未来」に向かうことができれば

子どもは勝手に成長していくんじゃないか。

 

ふと思いました。

 

大切なのは、大人の目に映る「未来」ではなくて

子どもたち一人ひとりの目に映る「未来」。

 

そのきっかけをつくり、支えていくことが

大人ができることなんじゃないかぁ。

 

言葉に想像力を込めて

人を好きになる時に大切なのは「内面」か「外見」か。

 

このことを問うこと自体、現代社会には合っていないのかもしれませんが

これまでに何度も問われてきた(話のネタとなってきた)ことだと思います。

 

一般的には「外見」と答えるより「内面」と答える方が「人を見た目で判断しない人」と思われてベターだと思われている(と勝手に思っています。)

 

けど、その答えを聞いた自分のパートナーはどう思うか。

「あ…自分の『外見』は関係ないんだ…」

これは…ほめていないですね。

 

 

ずるいようですが仮に質問に答えるなら「両方」です。

この時にどちらも選べないから「両方」と答えるだけじゃなくて

「自分のパートナーがどう思うか」という視点を持っているかどうかって

結構大切じゃないかと思います。

 

失言が多い人はこの想像が足りていないんじゃないかと思うんです。

自分が発した言葉を受けとる人は、目の前の人だけじゃない。

特に今の時代は。

 

家庭でも夫が妻に向かって言いがちな一言。

 

「手伝うよ」

 

家事をするのは妻である前提の一言ですよね。

普段からどう思っているのかがはっきりとバレる一言です。

 

 

想像力って大切だと改めて思います。

どうやって鍛えようかな。

学びは贅沢品

今でも学べない環境の人はたくさんいる。

学校に行く状況じゃない人がたくさんいる。

命の危機を常に感じている人がたくさんいる。

災害がおこれば学校もなくなってしまう。

 

林修 「勉強する気がおきません」という問いに対して

「やめてしまえ。勉強は贅沢なことなんだ。勉強するために親は必死で働き、あなたが勉強できる環境を整えてくれている。あなたのために投資してくれている。

そんなこともわからず、『勉強したくない』と言うあなたに学ぶ資格はない」

 

小学校・中学校で年間いくら親が負担する?

 

「学び」という贅沢を人生の豊かさに転換しなければ!

 

今の日本は豊かな社会。

銃弾が飛んでくる社会。

一人で電車に乗れない社会。たくさんある。

 

豊かな社会に生まれたのだから贅沢しよう。豊かに生きよう。

すでに贅沢している社会。

自転車、車、服装、などなど。

 

戦争中。今日も生きている。子どもが生きている。親が生きている。それだけでよかった。

今は…。

 

自分のやりたいことに挑戦できる贅沢。

学ぶことで「選択肢」が増える。そんな贅沢を。

 

「選択肢」を増やさないという「抵抗」はやめる。

変化の為には行動の変化が必要=「違和感」を楽しむ。

成長には違和感が伴う。違和感サイコー!

まずはコップを空にして入れてみる。

 

自分も失敗すると思う。

でも、これまでの経験の中では最高の選択をする。

未来の自分と比べたら未熟かもしれないが、過去の自分からは尊敬される生き方をする。

 

 

◇鴨頭嘉人YouTube「やってはいけない勉強法 ⚠非効率「みんな間違えている!」」を見てその内容メモと感じたこと。

それ、本当に正しいのか?

体の動かし方について考えるのが好きです。

スポーツでどうやったらうまく動けるかって考えるんです。

 

その時、世の中で一般的に言われていることをあまり信用しない。

まずは疑いたくなるという感じです。

 

例えば、

僕が中学生ごろは野球のスイングは上から叩きつけるように(ダウンスイング)って

教えられることが多かった。

今は違う理論が唱えられていて(流行っていて)、ダウンスイングではいけないって言われています。

でも昔の選手は「ダウンスイング」が大切だと教えられて、そして一流のプロ野球選手になっている人がいっぱいいる。「ダウンスイング」を指導したチームが強くなった指導者もたくさんいるんです。

 

これはなぜか。

一流の選手になる人は、自分の動作を修正する能力に優れています。

指導者から「ダウンスイング」だとしつこく教えられていても無意識のうちに少しずつ動きに修正がかかり、いつの間にか打てるようになっていく。

映像や写真で見てもダウンスイングはしていないんです。

つまり、できる人は勝手に上手になっていくんです。

でも無意識なので、本人は「ダウンスイング」をしているつもりなんです。

だから本人も「ダウンスイング」が正解だと信じるし、指導者も「ダウンスイングをさせれば打てるようになる」と信じてしまう。

そして間違った理論が世の中に広まってしまったんじゃないかと思うんです。

※本当に「ダウンスイング」がまちがっているかどうかは別の話です。

 

スポーツを教えている人の中には「世の中で言われている常識」をそのまま教えている人が結構いるんじゃないでしょうか。

野球で言えば「ダウンスイング」の他にも

「守備の時には腰を落としなさい」とか「ボールを正面で取りなさい」とか。

これって本当に正しいんでしょうか。疑ってみると結構おもしろいんです。

学校の体育の授業ではどうでしょうか。

 

世の中には「結果がでること」と「正しいこと」は同じではないことがたくさんあるようです。結果が出たから正しいとは限らないんです。

ほどほどに「疑ってみる力」って結構大切だなぁと感じています。

 

 

知らなくていいこと?

神戸市で小中学校の教員の昇任試験(教頭・校長になるための試験)が廃止されて面談などで決定することになったという報道がありました。

これまで論文などの筆記試験と面談で行われていたけれど、昇任試験をうける教員が年々少なくなってきたことが理由の一つだそうです。

 

たしかに学校の先生たちは忙しい人が多いらしいので試験勉強をする時間を取られることが大きな負担ではあると思います。

筆記試験がないなら「よし、教頭になろう」と思う先生が増える可能性はあるのかもしれません。

けれど本当にそれでいいのでしょうか。

 

 

「知らないけど知っているふり」をすることと「知っているけど知らないふり」をすることってどちらが大変だと思いますか?

 

ワタシは「知っているふり」をすることが何倍も大変だと思います。

つまり「知ったかぶり」ですね。

うっかり知ったかぶりをしてしまうともう大変です。

その後を取り繕うためにウソを重ねなければいけなかったり、必死で付け焼刃の勉強をしなければならなかったり。

知ったかぶりがばれてしまい信用を失うこともあるかも。

 

反対に「知らないふり」をするのは気が楽です。

相手の話に相づちをうちながら「へぇ~すごいねぇ」と答えておけば相手の気分もよくなっていきます。

後日同じ人と会ったときにその話題を出して「とっても興味がでたのであれから必死に勉強したんです!」と言えばさらに相手に好印象を与えるかもしれません。

この場合も相手に対して「ウソ」をつくことになるので気遣いは必要ですが、知ったかぶりをするより断然楽です。

 

学校の校長先生や教頭先生は当然責任を伴う立場であって、いろいろなことの判断をしなければいけない。そして、その判断をした理由も明確に答えられなければいけないと思うんです。

その時に問われるものの一つがその人の「知識量」ではないでしょうか。

 

 

もちろん、ただ「知識がある」だけでは周囲の人を納得させることはできないでしょう。経験や実体験のともなっていない知識にはあまり重みはないです。

けれど「知識」に乏しい人が自分の経験だけをもとに行う判断はとても危険で周りを納得させることも難しいとも思います。

 

 少なくとも責任のある立場の人にはそれに応じた「知識」は必要だと思います。

大げさに言うとですが、「知識」を問う試験がなくなることで「知識量」に乏しい責任者が増えてしまうんじゃないか!?とも思ってしまいます。

 

知らないより知っていた方がいいことがたくさんあるんだと思います。

そう考えれば、「将来何の役にたつの?」と思ってしまう学校の授業にも少し前向きになれるはず!?

 

まぁ、いくら知識があってもそれをどのように使っていくのかが、もっともっと大切なことだとは思いますが。

相手の気持ちを考える

「人の気持ちを考えなさい」

「自分がされて嫌なことは友だちにしてはいけません」

 

学校で一度は先生から言われたことがあるんじゃないでしょうか。

子どもは成長の中で「自分一人」の世界から「みんなと生きる」ことを学び社会性を身につけていきます。

だから冒頭の言葉は、必要な言葉(教え)で特に幼い子どもたちにはわかってほしいことではあります。

 

けど、この教えだけでは足りないことがあるなぁと感じています。

 

まず「人の気持ち」について。

そもそも「人の気持ち」を考えた結果、よかれと思って取った行動が相手を傷つけることもたくさんあります。相手が怒り出すことだって。

 

前提として「人の気持ちはわからない」と思っています。

言い換えると「心の中はわからない」ということです。

相手の気持ちがマンガの『ふきだし』みたいに目に見えることはないし

相手の口からでた言葉が本心とは限らない。

 

だから相手の気持ちは「想像」することしかできないんです。

「考える」=「想像する」ことで、それは間違っているかもしれない(相手の気持ちとは違うかもしれない)ということを理解していることが大切だと思います。

 

その上で行動した結果、相手が怒り出したら素直に謝る。

「ごめんね。ワタシはこう思ったんだけど違ったんだね。」って。

そして相手が何か表現してくれたら、さらにその情報をもとにして想像する。

これを繰り返していくと目の前の相手との距離を縮めていけると思うんです。

 

悪いパターンは「せっかくワタシがあなたの為を思ってしてあげたのに」と相手を責めることですね。プレゼントを贈ったのにあまり喜ばれなかった時なんかに多いかも。

この「せっかく○○したのに」というフレーズは相手の気持ちが「わかる」と思い込んでいる人が使いがちなんだろうと思っています。

 

次に「自分がされて嫌なことを…」について。

この場合は相手の気持ちを自分に置き換えて「想像」しているのですがここで注意したいのが、相手と自分は違うということ。

当然のことですが、このことがきちんと理解できていないと

「自分が嫌じゃないことは相手にしてもいい」となってしまう。

その結果相手が怒ってしまっても「相手が悪い」と思ってしまうことだってないとはいいきれない。

よけいなお世話的なことになってしまうんです。

 

だから子どもたちに「相手の気持ちは目に見えないしわからないよ。だからこそしっかり想像して配慮することが大切だよ」と伝えてほしいなぁと思います。

 

 

 

中学生の時に「こころの処方箋」という本と出逢いました。

「心理学者は、『ヒトの心はわからない』と一番理解している人である」というようなことが書いてあったことを思い出します。

 

 

 

 

 

 

黒でも白でもない

賞味期限を過ぎたチョコレートは食べますか?



決まっているルールを守ることは大切なことです。

ただアウトかセーフか判断に迷う微妙な時もありますよね。

 

判断の基準を細かくしていけば行くほどアウトとセーフの境界線の幅は狭くなっていきます。

当然境界線を越えればアウトになるんですが、その線上で起きたことをどう判断していくのかが責任者には求めれらると思うんです。

 

これは家庭における親も同じ。子どもが約束を破りそうな時どの時点で「こらっ」と叱るのか。

このとき境界線の幅がものすごく狭いと子どもはすぐに足を踏み出してしまう。するとすぐ叱る必要がある。親は子どもの行動をずっと見ている必要があるし子どもは親の目をものすごく気にして行動するようになる。

周りの人の目を気にすることは必要な力だとも思いますが、判断の基準が「叱られるから」となると「叱られなければいい」となり下手をすると「バレなければいい」となってしまうこともあると思うんです。

まぁ、子どもは経験の中で上手に成長していってくれることが多いとは思いますが、大人でも同じことが起こりうる。

 

集団の中でのルールが細かすぎるとメンバーの一人ひとりの裁量がとても小さくなってしまい新しい発想やアイデアが生まれにくくなってしまう。

行動するときに「ルール」に照らし合わせなければいけないことが多すぎて縛られてしまう。

責任者の方も同じで境界線からはみ出ていないかどうかのチェックに力を使ってしまって新しい可能性を試してみる余裕がなくなってしまう。

結果的にものごとが停滞してしまうと思うんです。

 

境界線の幅が広ければメンバーの一人ひとりは「これもしかしたらいけるんじゃないか?」と思い切った提案ができます。その中から現状を打破できるアイデアが生まれるかもしれない。

明らかに境界線を越えたものについては「アウト」と判断するとして、境界線上のものについての判断をするのは責任者がすればいい。

「グレー」にみえるけどこれは「黒よりか白よりか…」と検討できる幅があるんです。

 

ワタシは、この「グレーゾーン」がとても大切だと思っています。

AIにはできない「人間」だからできることだと。

境界線の幅が広ければグレーゾーンが広がるわけで、その中には「可能性」がたくさんあるんじゃないかと。

 

「グレー」だと思っていたら実は黒でも白でもなく「ブルー」だったりすることもあるんじゃないでしょうか。このブルーが見つけられたら素敵ですね。

 

子どもの話に戻ります。

親としては子どもの行動からはできるだけ目を離さずしっかりと見ていてあげたいと思います。そして上手に「目をつぶって」あげる。優しく「見て見ぬふり」も大事だと。

人を傷つけたり大きな迷惑をかけることにはすぐに口を出しますが、そうじゃないならちょっと様子をみてあげたい。「今、境界線上でがんばっているなぁ」と。

 

その広い線の上で子ども自身があたらしい「色」を見つけられますように。



賞味期限はあくまで「おいしく食べられる期間のめやす」らしいです。

ワタシはその商品が作られてから賞味期限までの期間が長いものは、賞味期限を大きく越えても大丈夫だと思っています。

少なくとも賞味期限を「1分」過ぎた食べ物でお腹が痛くなったら、作った企業は困るでしょうから。