こどもの成長

寝る前に、こどもたちに絵本を読むことが多い。

 

先日、6歳の長男が選んだ本を読んでいる途中に

3歳の次男が私の手からその本をとりあげて

騒ぎ出した。

 

次男いわく、自分が読んでもらう番で、読んでほしい本は別の本らしい。

 

はじめは、長男の番であること、読み終わったら次は次男の番であることを説明していたが、いっこうに泣き止まないので、説明することもやめて

しばらく、黙っていることにした。

 

そのうち泣きつかれて、寝てしまうかと思っていたら

ほんの2、3分で

「とうちゃん、ごめん」と私に本を手渡し、

「○○(長男の名前)、ごめん」と長男にもあやまり、

すっと横になり、絵本を聞く姿勢になった。

 

おもわずめちゃくちゃ褒めてあげたくなったが

ふと、思った。

 

次男のこの行動は、自分で考え、これまでの経験から導き出した結果である。

ここで過剰に褒めてしまうと、この行動よりも「褒められた」経験が強くなってしまい

「褒められることを目的とした行動」になってしまうのではないかと。

 

それよりも、今回の判断が次男にとって「あたりまえ」の行動であり、褒められることを期待しての行動にならないことがいいのではないかと。

 

「ほめる」教育はとても大切だと言われているが、ほめすぎることもどうなのか。

行動の判断基準が、「ほめられる」だと、期待通りの「ほめ」が得られなかった時に

大きな失望をもたらすのではないか。

 

「あたりまえ」のことを「あたりまえ」に「たんたんと」できることが、とてもむずかしく、そしてとても大切なことだと思う。

 

とにかく、次男の成長が嬉しかった。

一言。

友人から電話があった

何気ない話を少ししたあと

数日後に会う予定がキャンセルになるかもしれないと

言われた

 

その時初めて知ったことだが

父親が半年ほど前から闘病中で

近々退院するという

回復しての退院ではなく

『最期』のための退院

その日が予定と重なりそうだというのである

 

はっとする

 

自分は会話の中で

友人のこころをえぐる言葉を口にしていなかっただろうか

この半年間

大切な人の最期も覚悟しながら毎日を生きている人にとって

聞くに堪えれない発言はなかっただろうか

『命』『生きること』を過剰に揶揄することをしていなかっただろうか

 

「教えてくれていれば、そんな言葉は口にしなかったのに」

 

言い訳としてぎりぎり成立するかもしれないが

口から出た言葉は

聞いた人のこころに残り続ける

 

 

 

臆病者

自分が正しいと決めた道に進もうとしたとき、目の前で、周りの多くの人たちが違う道を選ぶと、とても不安になる。

 

初めて訪れる場所を目指して、事前にマップも見て、ナビも設定して、準備を整えていても、目の前の人たちが曲がる道に、つられてしまいそうになる。

 

それでも、自分の選んだ道を進むと、とても心細くなる。不安になる。

 

だから、もう一度、確かめる。自分の道は、正しいのかと。

 

不安があるから、確認する。正しくなくても、修正できる。

 

不安は、それほど悪いものではない。大きくなりすぎるとよくないかもしれないが、

少し不安を感じた時に、自分の進む道を見直すきっかけとなる。

 

 

大学生の時、バイト先の店長に「君は、臆病(おくびょう)だよね。でも、臆病は悪いことじゃないんだ」と言われた。

 

臆病者も悪くない。

言葉の届く先を想像する

今、発言している自分は、どの立場で話しているのだろう。

どこまで、この声が届くことを想定しているのだろう。

 

会社をまとめる立場。

部署をまとめる立場。

プライベートな友人としての立場。

家族の一員としての立場。

 

人から、今、発言している自分は、どこの誰として認識されているのだろう。

 

その境界線が、わかりにくい。

自分が想定している自分と、周りの人が見ている自分が同じとは限らない。

 

いつ、誰に聞かれても、胸を張れる言葉と、それを生み出す思いを常に心がける。

どこで誰が聞いているかわからない

人と話をしていて

その場にいない第三者の話になることはよくある。

特に差しさわりのない話や、笑えるような話であればいいけれど

いわゆる「悪口」に近い場合もある。

 

 

その第三者が共通の知り合いの場合もあれば

自分は知らない場合もあるけれど

「悪口」を言っている人は

話を聞いている人(この場合は私)と

話題に上がっている人(悪口を言われている人)の

関係性を考えているのだろうか。

 

たとえ関係が深いと知っていても

気にせず自分の想いを口にする人もいるとは思うけれど

聞かされる自分としては気分のいいものではない。

たとえ自分とは現時点で無関係の人であっても同じ。

 

 

けっこう前の話になるけれど

研修会の場で近くに座っていた二人組が

私に聞こえる声の大きさで「ある人」について

ああだこうだと悪口を言い合っていた。

 

直接私と会話していたわけではないけれど

この「ある人」は以前私の同僚で

それなりに付き合いのあった人であった。

 

当然、この二人に対して私はあまりいい印象を持たなかった。

私程度にどう思われても、痛くもかゆくもないかもしれないが、

場合によっては、大きく自分の信用を損なうこともあるのではないか。

 

 

「他人を悪く言う」ということは、結果として自分の評価を下げる。

「この人は、自分の知らないところで、自分のことを悪く言う可能性のある人」だと信用を下げる行為でもある。

 

人と人との関係性の中で、「気の合わない人」や「苦手な人」がいるのは仕方ない。

けれど、将来、どうしてもその人を頼ったほうがうまくいくという出来事がでてくるかもしれない。

 

すべての人と仲良くしようというのではないが、少なくとも人の悪口を「公表」しないほうが、自分の人生にとって「お得」であると思う。

 

 

なぜ学ぶのか

なぜ学校で勉強しなければいけないのか?

何のために勉強するのか?

勉強が苦手や苦痛な子にとって、ここが納得できないと

なかなか学びは進まない。

 

大人はどう答えるのか。

将来のため?

困らないように?

選択肢を増やすため?

 

高校生ならともかく

小学生や中学生の子どもたちはピンとこない。

 今の自分と距離がありすぎて。

 

学校では「今の自分」と「将来の自分」をつなぐために

『キャリア教育』が行われている。

働くことを通じて、自分の生き方を見つめる学習である。

 

けれど、それでも学ぶことに積極的になれない子も多い。

 

本来、新しい学びやできるたことが増えることは嬉しいものである。

これは、きっと遺伝子上にプログラミングされた感情のはず。

人間という「種」として成長するために必要なことだから。

 

なぜ勉強がきらいになるのか。

もしかしたら、できたことを否定されたことが多いのではないだろうか。

 

家の壁に絵を描いて(らくがきして)叱られた。

親の化粧品で遊んで叱られた。

 

赤ちゃんのころは、みんな喜んでほめてくれたのに。

成長するにつれて、「年齢にふさわしい」行動を

求められるようになる。

自分が新しくできたことや発見したを認めてもらえなくなる。

 

宿題をしていてわからないときに

「そんなこともわからないの?」と叱られる。

「早くしなさい」と急かされる。

別のことに夢中になっていたら「そんなことよりも宿題をしなさい」と。

 

学びの喜びよりも先に「嫌な記憶」のスイッチがオンになる。

そんな経験の積み重ねで、喜びのスイッチがオフになっているのではないか。

 

ただ「できたこと」をほめるのではなく

できた時の「喜び」を子どもと共感しフィードバックすることが

大切なのだと思う。